3.アリス・スプリングス 5月31日(月) 早朝のAM5:30、チェックアウト。AM6:00ホステル発。今日からは、オーストラリアのほぼ中央にある、アリス・スプリングス(Alice Springs)を目指して一路南下する。我々は24人乗りの小型バス(貨物車を牽引して食料や荷物を積んでいる)に10人が乗車。昨日までの16人からの引き続きは5人だけで(東ドイツ人女性2人、イギリス人女性1人、米国人男性1人、小生)他の5人は新人さんだ。 新人さんの内訳は、医者(夫)と、ウェッブ・デザイナー(妻)のアメリカ人で中年のカップル。オランダ人女性1人。イギリス人女性2人。 AM7:00頃、立ち寄ったスタンドで、ハンバーグとコーヒーを食す。7ドル也。 アデレード・リバー戦争記念墓地 車はスチュアート・ハイウェイ(Stuart Highway)を南下している。このスチュアート・ハイウェイは、1860年から1862の3年を掛けて、南のアデレードから、北端のダーウィンまで初めて探検したスコットランド人の名前、ジョン・マクドゥアル・スチュアート(John McDouall Stuart)にちなんで付けられている。 スチュアート・ハイウェイ−1 彼は1815年生まれ、若い頃から測量士として、数回にわたり内陸の調査隊に参加している。そして彼が隊長として探検を行ったのは次の通りである。 第1回目、1860年3月〜9月。この時彼は、アタック・クリーク(Attak Creek)で、アボリジニの攻撃を受けて退却。 第2回目、1860年11月〜1861年9月。ニューカッスル・ウォーターズ(Newcastle Waters)付近でアボリジニとの戦いになり退却。 第3回目、1861年10月〜1862年12月。ダーウィンの浜辺に到着。瀕死の状態ながらもアデレードに生還。 アデレードからダーウィンまで、3400kmの乾燥した荒野を、馬とラクダに水や食料を積んでの探検は、大変な事だったに違いない。内陸の砂漠の砂と、強烈な夏の日差しで、目が見えなくなったり、水不足、野菜不足で壊血病になったり、文字通りの命がけであった。 彼には報奨金が出されたが、生活を支えるには十分ではなかった。後にサウスオーストラリア州政府に報奨金の件でクレームを付けて、1000ポンドの上乗せ金を獲得したが、それでも生活には十分ではなかった。1864年4月、オーストラリアに見切りを付けて、スコットランドの姉の元へ帰った。 やがてロンドンに移り住み、講演や出版で身を立てようと試みたが、身体の衰弱が激しく、記憶を呼び起こしたり、考えをまとめたりすることが出来なくなってしまった。体力が回復しないまま、1866年6月5日、脳溢血で死亡。享年50歳であった。孤独のうちに死んだと言う。 また、彼の前にもロバート・オハラ・バーク(Robert O’Hara Burke)が、探検隊を率いて1860年8月、メルボルンからカーペンタリア湾(Gulf of Carpentaria)を目指して、到達には成功していたが、帰路に病気と飢えで死んでいる(1861年7月)。 スチュアート・ハイウェイは、片道一車線の舗装道路が地平線の果てまで続いている。時々追い越し車線がある。鉄道線路が平行して走っているようで、時々線路が見え隠れしている。しかし、一度も列車が走っているのを目撃した事は無い。 周りの景色は単調そのもので、赤土と、まばらに生えた灌木の荒野である。人工物は、道路と線路、それに数十km置きに現れる、電波塔と試験設備のように小規模な太陽光発電のパネルしか見当たらない。数千年、数万年前の姿と何も変わっていないのではないかと思う。ここで「地平線の向こうまで俺の土地だ」と宣言しても、誰も文句を言う人は居ないのではないか。ただし、此処で生きていける保障は何も無い。 我々は、早く起床したと言うだけで、車中は音楽を聴いて、水を飲む事ぐらいしかする事が無い。多くの人は横になって寝ている。我々を乗せたバスは、長時間にわたってこの単調な道路の上をひた走る。運転手は睡魔との闘いが大変であろう。大音量の音楽を掛けてはいるが、盛んに目をこすっている。時々すれ違うのは、数十トンもありそうなトレーラーを、3〜4台も連ねた連結トレーラー(Road Trains)である。これは最長53.5mにもなる。 ハイウェイを走る巨大な連結トレーラー AM10:00、時間的に少々早いが、スチュアート・ハイウェイから脇道に入った、キャンプ場で、サンドイッチのランチ。食べ終わると、近くの滝、エディス・フォールズ(Edith Falls)で水浴だ。滝とは言っても、高低差の小さな滝で、滝つぼの周りが自然なプールになっている。オーストラリアでは、これが自然からの最大のプレゼントなのかもしれない。若い人達は大喜びで泳いでいるが、小生は腰湯ならぬ腰水だ。 エディス・フォールズ−1 エディス・フォールズ−2 PM12:30、エディス・フォールズを発ってPM1:30に、キャサリン(Katherine)の街に到着。此処で30分間の休憩と言うから、インターネットの出来る店でメールを試みるが成功しなかった。この街ではアボリジニを多く見かけた。 今日から新しく加わったイギリス人女性(30歳)は、「7年前に英語教師として日本の奈良県に赴任する予定であったが、母親の病気の為に行けなくなった。その夢はまだ持ち続けている。シドニーでは日本人に英語を教えていた。日本人は、文法や読み書きは良く出来ていた。メルボルンには、スリランカに旅行した時に知り合った、スリランカ人のボーイフレンドがいるが、結婚する事はなさそうだ」。と言っていた。 PM2:30から、ニトミルク国立公園(Nitmilk National Park)、別名キャサリン峡谷国立公園(Katherine Gorge NP)をハイキング。戻ってきたのがPM5:00だから、往復2時間半。結構高低差があり、歩き甲斐のある道であったが、目的地に着くとそれなりのご褒美が待っていた。深い峡谷に水が流れている景色は見応えがあり、そこで川下りを楽しんでいる人も見受けられた。 キャサリン峡谷 一方、足に豆ができたと言って、足を引きずっている人も居る。彼女は「イギリスのロンドン出身だが、イギリス経済が悪化したので、シドニーに来てファイナンスの仕事をしている」と言う。英語が出来る人は、好景気の所を渡り歩く事が出来ると言う見本である。 オーストラリアに来て、ハイキングをしていると、土の色が赤い事が気になる。鉄さびの赤である。リーダーに「土が赤いのは、鉄分が多いと言う事ですか」と聞くと、「そうです、特に西オーストラリアには、鉄鉱山が沢山あります」と言う。そう言えば、最近テレビで、資金繰りが苦しくなったオーストラリアの鉄鋼会社を、中国から買収に来ていると放映していたっけ。 土が赤いのは? また、殆ど平らな国土に道路を造る事は、安く出来るであろうが、「水の少ない内陸では、電気はどのように起こしているのですか、火力ですか原子力ですか」と聞くと「豊富な石炭による火力発電です。原子力は使っておりません」と言う。 ハイキングから戻って来て、休憩所でイギリスのウェールズから来ている女性と、オランダ人女性との3人で懇談している時に、イギリス人女性に「あなたの肌の色が白いのは、先祖が北欧系だからですか」と聞くと、「そのようです。髪も金髪だし」と言う。すると隣にいたオランダ人女性が「私も本当は白いの。オーストラリアに来て8ヶ月になるから日に焼けて黒くなったけど。ほら!」と言って下着をきわどい所までサラリと下ろして見せる。「オー、ノー!」こちらがドッキリしてしまう。 PM5:30、今夜の宿泊場所であるキャサリンのキャンプ場に入る。夕食までに時間があったので、暫くウノ(UNO)のゲームをした。このグループの仕切り役は、東ドイツのニコル(Nicole 27歳)だ。私にとっては初めてのゲームであったが、それなりに楽しめた。 今日の夕食は、ご飯に何やら、ごった煮したものを掛けて食べた。カレーでもシチューでもないのだが、そしてご飯も自宅で、炊飯器を使って炊いたように美味しくは無いが、米料理と言うだけで普段よりは食欲が出る。キャンプ場での食事だから、これで我慢すべし! 食後、東ドイツから来ているもう一人の女性ロミ(Romy 30歳)と少々懇談。彼女は「ベルリンの壁が崩壊したのは私が10歳の時でした。それまでは西側に住んでいる叔父から送られてくるプレゼントが本当に嬉しかった。そういう物でも開けて見た検閲の痕跡がありました。 父親は大工をしています。自分はこれからニコルと一緒に、エコノミック・エンジニアの学校に進みます。年齢的に少し遅いけど、あまり気にしていません。国にはボーイフレンドがいて、今は幸せです」と屈託が無い。まだ小さかった事もあって、政治的に嫌な経験は無さそうであった。PM9:00から1時間ほどパソコンを叩いて、PM10:30に就寝。 6月1日(火) AM5:30、起床。AM6:00、朝食。AM7:00出発。今朝はひんやりした朝である。夕べ寝袋を借りる時に、リーダーが「こんなに暖かいのに、寝袋を何に使うのか」と言うので、「枕にするのだ」と言っていたのだが、実は夕べは寒くなり、寝袋の中で寝たのであった。今にも降ってくるような、美しい星空であった。「こちらで見る星は、一つ一つが大きく見える」と感じるのは、気のせいだろうか。 ドイツ人女性のニコルは、バスの中でもよく喋っている。語彙の数は決して多くないようであるが、会話には全く問題が無い。時々「それはどういう意味ですか」と聞いている単語は、「あれ!そんな単語も知らないの?」と言うレベルの言葉なのだが、それでもリスニング、スピーキング力は、遥かに小生より宜しい。ナチュラルスピードにも問題なく対応している。 彼女は「チェコとの国境に近い田舎に住んでいて、冬は氷点下20℃にもなるので、スキーやスノーボード関係の仕事をして貯金をし、夏の旅行に備えている。両親は近くの工場で共稼ぎをしている」と言う。 米国人のドクター夫婦は、オーストラリア生まれの妻が、アメリカ旅行中に出会った事がきっかけで、結婚したそうな。私が「お医者さんで共稼ぎでは、お金が溜まって仕方が無いでしょう」と言うと、「現実はそんな事無いのよ。うちの夫は特殊な医者だから」と言っている。良く理解できなかったが、「癌の終末期の人のセラピーを行っている」と言っていた。確かに儲かっているような顔ではなかった。 AM8:40、エルセイ国立公園(Elsey National Park)内にある、マタランカ温水プール(Mataranka Thermal Pool)に着く。ここは美しい自然の中にあって、常に34℃の水温を保っている。温水は、ゆっくりと流れていて、実に透明である。外に出ると少し寒く感じ、「長湯には、これ位の温度が良いのかな」と思った。滝の周りのプールでは、腰水で終わっていた小生も、今度ばかりは首まで浸かって、温水の恩恵に浴しました。 マタランカ温水プール AM10:15、名残惜しくも温水プールに別れを告げて、我々は再び車上の人になる。暫くはクイズで時間潰しだ。回答者だけが答えを知らない。回答者は22回の質問ができる。聴衆者は質問に対して「イエス、ノー」だけで答えると言う形式だ。私にはビートルズのジョン・レノンの妻「オノ・ヨーコ」が出題されたが、お情けのヒントもあって、無事クリアー出来ました。 AM11:00、開拓時代を想像させる、一軒だけのオージー・パブ(Aussie Pub)に立ち寄る。蛇、鳥、ワラビー(Wallaby)等が店の内外に飼われていた。あまり衛生的ではないと思うが、奥地にあるパブとしては、これが普通なのであろう。一休みした後、AM11:35に此処を出発した。 AM12:40、スチュアート・ハイウェイから少し横に入った、デイリー・ウォーターズ(Daly Waters)に到着。此処のパブには、壁と言い、柱と言い、所かまわず女性の下着が引っ掛けてある。単なるお遊びではあろうが、町中では考えられない光景だ。我々はここの敷地の一角にあるバーベキュー設備で、チキンバーベキューを作って昼食である。 デイリー・ウォーターズでバーベキュー また、此処の敷地内に「S」の文字がうっすらと見える木が一本立っている。これは「スチュアート・トゥリー(Stuart Tree)と言われ、ジョン・マクドゥアル・スチュアート(John McDouall Stuart)が、アデレードからダーウィンを目指した、3回目の遠征の折りに、辿り着いた証拠記念に、木に印して行った物である。そうと言われなければ見逃してしまうような、何の変哲も無い一本の木であるが、今となっては歴史的に重要な記念碑となっている。 スチュアート・トリー 昼食の後、道路を使ってのボウリングを少々楽しむ。凸凹の道路だからボウルは真っ直ぐには進まない。大方は大きく外れて、1ピンも倒せないが、そんな中でもストライクを出した人が居た。PM14:20、我々はバスに乗車。 PM15:00と、PM16:20にトイレ休憩。 路上でボウリング 我々はひたすら南進している。日本でなら太陽は進行方向の南にあるのだが、此処オーストラリアでは北の後方から、陽が注いでいる。道路は地平線の彼方まで一直線に伸びている。そしてその地平線に来ると、更に次の地平線まで一直線だ。この辺りは一本の道路が通っている以外は、開拓時代から何も代わっていないような光景である。 PM18:30、アタック・クリーク(Attack Creek)に到着。とは言っても、何の変哲も無い、今は涸れた浅い河床があるだけ。時間的にも日没後で、辺りは薄暗い。リーダーの説明では「ジョン・マクドゥアル・スチュアートが、ダーウィンを目指した第1回目の時に、この川で休み、馬を洗ったりしていた時に、アボリジニの攻撃を受け、アデレードへ引き返した所である」と言う。 PM19:30、テナント・クリーク(Tennant Creek)近くの馬牧場(Horse Farm)に到着。ここが今夜のキャンプ場である。すぐに夕食の準備に掛かる。私は切れない、使いにくい包丁でサツマイモの皮をむく。今日の料理は、ジャガイモに煮物を添えた一皿で、何が主食とは言えない。夕食後、小一時間の懇談をして、PM9:30に就寝。 今夜は深々と冷える。昨夜は寝袋の中で寝たが、今夜は更にモモシキと長袖のシャツも、着たままで寝ることにする。シャワーも歩いていかねばならないので止めた。内陸に向かっているせいか、1日ごとに夜の冷え方が強くなっている。 6月2日(水) AM6:00起床。朝食はお決まりのシリアルと食パン。夕べは、AM0:30と、AM3:30の2度、小便に起きた。シャワーを浴びずに寝たことと、冷えが厳しかった事が原因であろう。テントの中はもろに外気温だ。熱帯雨林地帯のカカドゥでは、気温は30℃前後の真夏並みで良かったが、蚊に悩まされ、内陸では蚊はいないが、寒気が厳しい。昨夜も星空が綺麗だった。 AM7:00、キャンプを出発。アリ塚が墓石のように林立している所を随所に見る。前にも言ったが、こう言う所では「地平線の向こうまで俺の土地だ」と宣言しても、誰も文句は言うまいが、果たして生き抜いて行けるかどうか疑問である。一説には「オーストラリアは広大な土地を持っているが、人間が住める所は限られており、人口2500万人位が限度ではないか」(2100万人/2008年)と言う。 AM9:00、デビルス・マーブルズ(Devils Marbles)石群に到着。アボリジニの伝説に寄れば、これらの巨大な石群は、「虹の大蛇の卵である」と言う。トルコのカッパドキアにあるキノコ型の石群も印象的な光景であったが、此処もそれに匹敵する珍しい光景である。石に含まれる成分の違いによって、風化・侵食された後の形が異なってくると思われる。 デビルス・マーブルズ−1 デビルス・マーブルズ−2 AM10:30、近くのキャンプ場で、早めの昼食(サンドウィッチ)を取る。 AM11:30、キャンプ場発。 AM12:00、ワイクリフ・ウェル(Wycliffe Well)に到着。此処はオーストラリアのUFOセンター(UFO Centre of Australia)である。基本的なレベルで疑問があるが、話題としては面白い。 PM14:00、バロウ・クリーク・テレグラフ・ステイション(Barrow Creek Telegraph Station)に到着。ここは大陸横断電信線(オーバーランド・テレグラフ・ラインThe Overland Telegraph Line)の基地跡。その昔、オーストラリアの状況を如何に早くアデレードからロンドンに報告するかが最重要課題であった頃(1872年)に作られた大陸間電信基地の一つである。そしてこの基地は、J.M.スチュアートによって、10年前に開拓されたばかりの経路に建設されたのである。 バロウ・クリーク・テレグラフ・ステイション アデレードから一挙にダーウィンまで無線を飛ばせれば、大陸の真ん中に基地を作る必要は無いが、それが出来ないので、命を掛けて中継基地を作り守った。ダーウィンからは海底ケーブルが敷かれており、シンガポールを経由して、ロンドンまで7時間で伝わるようになった。今はその時の建物が記念に残されている。 PM16:10、スチュアート・ハイウェイ上の南回帰線(Tropic of Capricorn)を通過。南緯約23度、東経約133度の地点である。冬至の日に太陽がこの線の真上に来る。冬至線とも言う。 南回帰線 PM16:30、オーストラリアのほぼ中央の街、アリス・スプリングス(Alice Springs)に入る。この町は、運転手のトム(身長194cm、23歳)のホームタウンである。 アリス・スプリングスに到着 今晩の宿泊所である、ホステルのヘブン・アリス・スプリングス(Haven Alice Springs)にチェックインし、シャワー、洗濯をする。PM7:00から、近くのパブでささやかに自前のディナー。室内は満席の為、寒い露天での乾杯。1時間ほどで引き上げる。 イギリス人女性の話の中で「南米旅行のツアーに参加した時、20人で3ヶ月間、一緒の行動をしたのだが、その時のバス内は、護送車のような雰囲気で最悪であった。気の合わないもの同士での、長いツアーは考え物だ」と言っていたのが印象的であった。 6月3日(木) 今日と明日は、ツアーも一休み。自由行動の日である。久しぶりにゆっくり朝食を終えて、AM9:00から日記を書いていたら、年配の日本人夫婦の会話が耳に入って来た。「日本からおいでですか」と声を掛けると婦人の方が「私たちは、ブリスベンに住んでおりまして、かれこれ15年になります。夫は72歳、私は68歳。今回はエアーズ・ロックに、行ってきたんです。現役時代はあちこち転勤がありましたので、ブリスベンが一番長くなりました。早期退職をしたのですが、勤めていた山一證券が2年後に倒産しました」と言う。 「それは幸運でしたね」と私が言うと、「ところが、退職金の一部を年金基金にしておりましたので、それがパーになりました。そして自社株を持っておりましたが、それも紙くずになってしまいまして。息子の結婚祝いにあげた株券も紙くずになってしまい、息子から、親父がくれたのは紙くずだったと言われました」という話。 「そろそろブリスベンを引き上げて、日本に帰ろうと言っているのですが、家が少しでも高く売れる時を考えております。年金は離婚して戻っている娘たちの生活費になっておりますので」と身につまされる話を聞く羽目になってしまった。 AM12:00、スーパーに昼食の食材を買いに行った。ジャガイモ、シーフード、キャベツ、インスタントラーメン等である。ジャガイモは電子レンジで、シーフードはオリーブオイルと塩・コショウで味付けをし、キャベツが沢山入ったラーメンを作って昼食を済ませた。 PM3:00から、昨日まで同じツアーに参加していて、同じホステルに泊まっている4人(ドイツ人女性2人、米国人男性、小生)で市内の見学に出かけた。 アリス・スプリングス散策 探検家スチュアートの記念碑、 スチュアートの記念碑 第1次大戦時に結成され、第2次大戦時は日本軍と戦ったオーストラリア・ニュージーランド連合軍(ANZAC・・・Australian and New Zealand Army Corps))記念碑を見た後、 アンザックの碑(アリス・スプリングス) アリス・スプリングス発祥の地まで足を伸ばした。 干上がった河床 市内から歩く事、片道1時間の所に、アリス・スプリングス開拓当時の電信基地があり、 開拓当時の電信基地 其処にある泉に、最高責任者、チャールズ・トッドの奥さん(アリス Alice)の名前を冠して「アリス・スプリングス」と命名した事が、地名の由来である。昨日も電信基地の話しが出てきたが、オーストラリア開拓当時、如何に電信基地が重要であったかを物語っていよう。 アリス・スプリングス由来の池 そして、内陸を探査する上において、水場が如何に大事であるかが、スチュアート・ハイウェイ上の地名を見るだけでも良く分かる。以下のように、大半が水場を表す地名なのである。 アデレード・リバー(Adelaide River) デイリー・リバー(Daly River) へイエス・クリーク(Hayes Creek) パイン・クリーク(Pine Creek) アタック・クリーク(Attack Creek) テナント・クリーク(Tennant Creek) バロウ・クリーク(Barrow Creek) エメラルド・スプリングス(Emerald Springs) ダグラス・スプリングス(Douglas Springs) レナー・スプリングス(Renner Springs) アリス・スプリングス(Alice Springs) デイリー・ウォーターズ(Daly Waters) ニューカッスル・ウォーターズ(Newcastle Waters) ワイクリフ・ウェル(Wycliffe Well) スチュワーツ・ウェル(Stuart’s Well) PM7:00に、ホステルへ戻り、スパゲティを作って、夕食。日本から持参した味噌汁は評判が良かったが、昆布を削って作った、とろろ昆布のお吸い物は、誰も飲もうとしなかった。懇談は、東ドイツの現状について種々。賃金とか景気とか、色々な所に西ドイツとの格差が認められるが、目の前の二人の東ドイツ人女性たちには、その影が全く感じられないことが救いである。 スパゲティの夕食 PM10:00、就寝。 6月4日(金) 今日は記憶に残る1日になった。アリス・スプリングスにおけるフリータイムの2日目である。AM7:00起床、食事。AM8:00からパソコン。AM10:00からサイクリングへ。「1日15ドルでサイクリング車を借りて、サイクリングに行くけど、一緒に行かないか?」と声を掛けられたので、「面白そうだね」と気軽に参加する事に。スーパーに寄り、昼食の品を用意してアリス・スプリングを出発したのはAM11:00。 サイクリングへ、いざ出発! 最初の30分ほどは軽快に走っていたが、やがて自転車が重く感じられるようになり、他の3人に付いて行く事が苦しくなってきた。「変だな、どうしてこんなに重いのだろう」と思いながら必死に付いて行くが、こらえきれずに「自転車を交換してみてくれないか」と言って、一番軽そうに思えたニコルの自転車と変えてもらった。
自転車が重い!? ところが自転車を取り替えても状況は全く変わらなかった。つまり付いていく事が大変だったのは、自転車のセイではなく、自分の非力が原因であったのだ。今日までは、若い女の子に負けるとは考えてもいなかったので、筋力の衰えを認識させられる事になり、ショックであった。 少し遅れ気味になりながらも何とか踏ん張って、ランチタイムのPM12:30まで頑張った。30分間ほどの休憩の後、再び自転車に。おおよその目的地は決まっているようであるが、吾人は最初から全てお任せで来ているので、どこまで行くのか、何時間ほど掛かるのか全く分からない。
干上がった河床でランチ 私を誘った方も、初めて行くところであり、詳細は分からない。地図を見ながら、案内所で場所を確認しながら走っていく。私は足の筋肉はもとより、お尻の筋肉が殆ど無い為、お尻が痛くなってきた。殆ど限界を感じたPM2:00頃、目的地のシンプソンズ・ギャップ(Simpsons Gap)に到着。
シンプソンズ・ギャップ(遠景) ヤレヤレである。其処には「来るだけの価値があるな」と思わせる光景が広がっていた。川辺に自転車を置いて、暫く川沿いに歩いて進む。其処の感動的な光景は写真を見ていただくのが良いと思う。こんな割れ目、隙間、ギャップはどうやって出来たのであろうか。地質学的には説明がなされているが、大変な時間を掛けて出来ている事は間違いない。此処の砂を採取して、娘へのお土産にしようと思う。
シンプソンズ・ギャップ(近景) 一通りその光景を堪能して戻ろうとした時、小魚が大量に死んでいる事に気が付いた。「こんなに綺麗な水の中で、こんなに人気の無い、空気の澄んだ所で、どうして魚が大量に死ぬのだろうか」不思議に思いながら、歩いていたら、一枚の掲示板があり、其処にその原因が説明されていた。
小魚の大量死 つまり「魚は水温の低下により、冬にストレスが高くなる。水が冷たくなるに連れて、原虫が魚のえらで大きくなる。原虫がえらで増加するに連れて、酸欠を起こして魚は死ぬ」と言う事である。大変珍しい現象であることに変わりは無い。 さて我々はPM6:00までにホステルに戻って、自転車を返さねばならない。PM3:00に、帰途に着いた。帰り道は「サイクリング専用道路を通った方が近道ですよ」と教えてくれた人が居たので、そのアドバイスに従って、来る時とは異なる道を帰ることになった。 ところがこの道は、アップダウンがきつく、往路で相当へたばっていた吾人には、地獄の苦しみが待っていたのである。平坦な道と下りの坂道では付いて行くものの、上り坂になると、まるで進まない。お尻が痛いので、硬いサドルに持ち合わせのタオルを敷き、右のお尻のほっぺと、左のお尻のほっぺを交互に乗せてこぐしかない。もう立ちこぎをするだけの脚力も残っていなかった。 タオルを敷いた時は、クッションとして効果があるかに思われたが、そもそも私のほっぺには殆ど肉が付いていない。従ってその効果もすぐに無くなり、ほっぺを左右に動かすたびに、タオルがサドルから落ちやしないか、それの方が気になって仕方が無い。事実、一度はタオルを落としてしまった。 更に一度は、休憩しようと言う時に、自転車から降りようとしてバランスを崩し、自転車もろとも、横倒しになってしまった。お尻に敷いたタオルを落とさないように、自転車から降りようとした事が原因だったかもしれない。こうなるとタオルはかえって邪魔になるだけだ。その後はタオルもはずして、破れかぶれの心境だ。 必死の思いでホステルに帰り着いたのは、PM5:30を過ぎていた。自転車に乗ったのは、学生時代以来だし、サイクリング車に乗ったのは初めてのことである。それも終わってみれば50Kmも走ったという。休憩時間を除いても5時間は走っていたので、平均時速は10Kmであった事になる。 オフの日は身体を休めてこそ、意義があるのだろうに、とんだ1日になってしまった。後半のツアーに影響が無ければよいが。溜まっていた日記を書くつもりであった最初の予定も狂い、日記は更に溜まってしまう事に。ただあのシンプソンズ・ギャップの印象深い光景は、それだけ苦しんだ、ご褒美の様でもあったが。 部屋に戻ると若い女性が2人、ウルル(Uluru)の旅から着いたばかりの様であった。「ドイツ語圏のスイス人」で、そういえば今朝この部屋から出て行った、男女の二人も、「ドイツ語圏のスイス人」であった。兎に角ドイツ語圏の人が多い。「まずシャワーを浴びたいわ。お先に宜しいですか」と言うので「どうぞ、どうぞ」と小生。我々は明日からウルルへ行くのだが、彼女達の振る舞いは、その旅がかなり過酷な旅になることを暗示していた。 夕食のおかずにしようと、前日試したシーフード・ミックスを、スーパーマーケットで再び購入。今夜は、サイクリングの仲間にもご馳走しようと思って「4人分下さい」と頼んだ。渡されたのを見て、「随分多いな」と思ったが、そもそも私以外の欧米人3人が、どの位食べるのかが分からない。「まあいいか、多すぎたら誰かにあげよう」とそのまま買ってきた次第。 大き目のフライパンにオリーブオイルを敷いて、火を通し、塩コショウで味をつける。作りながらも「明らかに多すぎるな」と思っていると、隣でインスタントラーメンを作っていた韓国人女性が「わーっ!おいしそうですね!」と言う。私は彼女たちに半分を分けてあげた。「本当に、こんなに頂いて良いんですか?」と喜んでくれて、お返しにジュースを貰った。 私達4人のグループでは、「美味しい」と言って食べてくれたのは、アメリカ人男性だけで、ドイツ人女性の2人は、おっかなびっくり2〜3個摘まんで終り。やはり韓国人女性に半分あげて良かった。 このときの主食は、前日作りすぎて残っていたスパゲッティ。昨晩食べた時は「まずまずの出来映えか」と思っていたが、一日冷蔵庫に入れておいた物を、マイクロウェイブで暖めなおした物は、暖め方が中途半端で、スパゲッティも硬く、とてもまともにのどを通らなかった。 ドイツ人のニコルは今日も白ワインを1本飲んでいる。顔色一つ変えずに!ダイエットなど全く眼中に無いようだ。3人の顔は日焼けして真っ赤。お互いに顔を見合って日焼けの見事さを確認し、今日の健闘を称えている。私は帽子を被っていたので、他の3人より、いくらか少ない日焼けで済んだらしい。PM20:30、シャワーを浴びた後、パッキングを済ませ、翌朝の早い出発を考えて、PM21:30に就寝。 |